『夜と霧』：運命という“賜物”

                梶川哲司／和歌山県立向陽高校教諭・ＯＷＬ仕事研究会世話人

　フランクルの著作が再版されている。昨年は代表作ともいうべき『夜と霧』が池田香代子による新訳で出版された。また品切れ中の著作集からは、５編がフランクル・セレクションとして重版されている（訳はそのまま。いずれもみすず書房）。

　私は「働くことの意味」を考えながら、数年前よりフランクルの著作を読んでいる。それは、「働く」ということは「いかに生きるか」ということを抜きにしてはあり得ず、その「意味」は生の根底にある人間本来の姿というものへの深い考察なくして考えられないと思うからである。この点、私はフランクルの世界観・人間観というものに深い共感を覚えている。一般にフランクルの考え方（ロゴセラピーという心理療法に体系づけられているが）は、理想主義的な精神論のような印象を受ける。しかしそれは決して観念論ではなく極限状況のなかで試された真実のものだ。ここに私は魅力を感じる。
　この機会にもう一度、そのような観点から彼の著作を読んでみよう。まずは強制収容所の体験を綴った有名な『夜と霧』から始めたい。

　旧訳は1947年刊の原著の翻訳であるが、原著にはない写真と図版が付けられ、収容所の詳細な解説がある。彼の体験を読むのにはずいぶん参考になるが、資料の語る惨状に目が奪われ、悲惨さのみが印象に残ってしまう。
　しかしフランクルが最も言いたいことは、奇しくも新訳の原著タイトル（「心理学者、強制収容所を体験する」が収録された『…それでも生にしかりと言う』1977年版）が示すように、そのような酷い人生でも“引き受けて生きる”ということにあったはずだ。その意味から今回の新版は彼の言葉のみが読めて有難い。なぜならナチスの悪業については、すでに多くの映画から視覚的に理解しているからだ。例えば、最近話題になった映画『戦場のピアニスト』を観れば（事実、私はこの映画を思い浮かべながら再読したのだが）、ドイツに占領された国のユダヤ人はどのような扱いを受けたかよく分かる。

　さて内容に移ろう。私の印象に残ったのは、少数ではあるが悲惨な収容所内でも内面的に深められ、あるいは精神の力で生き延びようとした人たちの姿であった。「運命に感謝しています…」と言ってマロニエの木と対話した若い女性の例。また収容された人たちがそれこそ我を忘れて幾度となく夕陽に見入るシーン。「被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な体験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった」（P64）と彼は述べている。「もともと精神的で感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあった」（P58）という。これを私は、ニヒリズムに打ち勝つ力は本質的に人間に備わっていると読みたい。
　さて当のフランクルはというと、「わたしのこの苦しみにはどんな意味があるのだ、この犠牲に、こうしてじわじわと死んでいくことに、どんな意味があるのだ。」（P66）と幾千回となく煩悶する。死をも含めた人間の生の、その根源的な意味を求めて苦悩する姿は感動的である。そしてここに人間本来の姿を見る。やがて彼は、己の生を肯定する境地に到るのであるが（すなわち運命に正しく苦悩し絶望しないことに意味があると確信する）、それはもはや“啓示”に近い経験だと私は読んだ。そして「…まっすぐな道を行くことを、あるいはそう言いたければ、運命のなすがままに任せることを、もうたっぷり学びました…」（P91）と言いながら、楽な場所への移送を拒む。結局このことによって命拾いをすることになるが、ここが一番印象的だった。

　ところで些細なことだが、旧版訳者が一文を寄稿されている。格調のある文体で、フランクル自身の人柄の紹介もあり、大変すばらしいものである。が、一部注釈の必要な部分が見受けられる。それはフランクル自身が収容所に入る前、「美しい妻と二人の子供にめぐまれて、平和な生活が続いていた」という部分と、その後収容所で「彼の両親、妻、子供たちは、或いはガスで殺され、或いは餓死した」という記述である。
　妻ティリーとは結婚後（1941年12月。彼らの結婚がウィーンでユダヤ人が許可された最後のもので、当時は子供をつくることも事実上禁じられていた）、わずか９ヵ月でテレージェンシュタット収容所に両親らと送られ（ここで父は餓死）、1944年にアウシュヴィッツに移送されている（ここで母はガス室へ）。したがって子供はいない。フランクルはここで妻と別れ、カウフェリング第３、テュルクハイムと計４つの収容所を経て解放される（1945年8月）が、妻はベルゲン・ベルゼン収容所に移送されて亡くなる。『フランクル回想録』（春秋社）によれば、英軍による解放後６週間のうちに（解放時の戦闘か？）死亡したらしい。妻の死体（肝臓）がジプシーらの食料になったという噂もあった。
　束の間の幸せな結婚生活と解放後の妻の死。私はむしろこれらの事実に心動かされる。すなわち、子供はいないが我が子ともいうべき『死と愛』の原稿を持って収容された。だからこれを取り上げられたときの落胆、しかしまたそれを速記により復活しようとした熱意、彼の思想がどれほどのものであったか…。また３年間の収容所での苦痛に耐え得たのは、妻を「精神力で呼び出すこと」によってであったというが、たとい短い結婚生活でも愛する人の本質は理解できたという事実。その妻が死ぬのは解放が決まってからだ。ここに私は運命の冷酷さを思う。収容所で死んだのなら致し方ないが、解放が決まり、あと少しという時に亡くなったのだから…。

　最後に、この書のタイトル『夜と霧』は1941年のヒットラーの特別命令の名称からきている。この命令により、多くの政治犯容疑者が家族ぐるみで「夜陰に乗じ、霧にまぎれて」何処ともなく連れ去られ、消え去ったのである。夜と霧とはまさにファシズムの本質を衝いた言葉だが、内容から題をつけるとすれば、私なら「運命という賜物」としたい。もちろん賜物とは、人間を超えた善意の送り主から届けられるものではあるが…。

　かじかわ・てつじ
　1951年和歌山市生まれ。大阪市立大学法学部卒業。
　｢人はなぜ働くのか｣という疑問を自分の課題にしながら、公立高校の社会(地歴・公民)科
　教員を25年余。ナチス強制収容所の体験を綴った『夜と霧』の著者・フランクルに共感し、
　現在、その思想を多角的に学んでいる。
　著書：山田邦男編『フランクルを学ぶ人のために』(分担執筆、2002年5月世界思想社)

 『時代精神の病理学』：自分探しの“秘訣”

                梶川哲司／和歌山県立向陽高校教諭・ＯＷＬ仕事研究会世話人

　前回は『夜と霧』(みすず書房)を通し、収容所の生活とそのなかで自らの生の意味を求めて苦悩するフランクルの姿を紹介した。そこで彼は、絶望しないでこの運命を担って生きること（態度価値）に自らの生の意味を見出し、積極的に生き延びようにした。
　ところでこのことがどうして仕事研究会と関係あるのか、と疑問に思われる向きもあろう。確かに現代の日本では、人間らしいことは何も許されない強制収容所の生活はまずはあり得ず、まして健康に働く（あるいは働こうとする）我々にとってこのようなテーマはいささか視点がズレ過ぎているかも知れない。しかし私が言いたかったのは、人間とは自らの生の意味を求め、人生を意味で満たしたいという欲求─これをフランクルは「誰のなかにもあるまどろんでいる欲求」（P45）と上手く表現しているが─を最も深い所で持っており、この欲求こそが仕事をはじめとする様々な活動の原点だということである。

　続いて今回は『時代精神の病理学』（みすず書房）を読んでみよう。この本の母体は、「訳者あとがき」にもあるように、フランクルが1951年から1955年までに行なった一般向きのラジオ講演集である。そのなかからセレクトされた26編がこの書である。したがって一般向きの極めて分かりやすい本で、その内容は、心理療法の解説ではなく心理療法そのものの実践であったというから、実際、この本を読めば何がしかの影響を感じるものである。
　私自身は、この本の「中年の精神衛生」という一章にある「…人間は普通過ぎ去った刈田だけを見て、過去という豊かな穀倉の方を見おとしている…」（P57）という言葉に、ずいぶん救われた思いをした。また心理学者の諸富祥彦氏もその著書『フランクル心理学入門』（コスモライブラリー）のなかで、「…フランクルの数ある著作の中でも私が最もお勧めしたいものの一つです」と言っている。

　次に内容についてであるが、「不安と不安神経症」という一章はよく引用される有名な箇所であるので紹介したい。不安神経症とは慢性の不安状態と急性の不安発作を特徴とする病で、現在は全般性不安障害とパニック障害に分類されており（DSM−�Wによる）、病とまでいかなくてもその傾向を持つ人は多い。
　具体例を挙げれば、『船の上のピアニスト』（トルナトーレ監督、99年伊・米映画）という映画があった。主演のティム・ロス（『ゴッホ』という映画で神経を病む画家ゴッホを好演した）が演じるピアニストは生涯、船から陸に降りなかった。一度だけ下船を試みた時があったが、目の前に広がる果てしない陸の街並には境界線がなく不安であるとタラップから引き返す場面がある（船の中の鍵盤の上という限られた世界なら異常な能力を発揮するのだが…）。あのシーンに見られた不安が、強弱さまざまな形をとって日常的に現れるのが不安神経症であろうと私は理解している。
　さてフランクルは、ここで不安神経症の治療の実際を説きながら、実は人間としての本来的な在り方を示している。すなわち「自己形成の秘密」と表現している部分がそれである。この箇所は『神経症�T』にある“反省除去”の説明でも同じ表現で出ており、そこでは「われわれは世界に通じる道をたどってのみ自分の自我に帰る」と結論づけている。これは、マックス・シェーラーの「…ある事物に我を忘れようとする人だけが、彼の真の自己を獲得するだろう…」（『哲学的世界観』）という思想を継いだ一面であり、私はこれを自己超越と理解している。そしてここに自分探しの“秘訣”があるように思う。少々長いが引用しよう。
「自分をうとんじ過ぎたりまたは構いすぎたりするより遙かに重要なのは…、自分をすっかり忘れ去ること、すなわち一般に自分自身のことやまた自分に係わることをもう何も考えないで、自分が個人的に果たさねばならぬしまたそれが許されてもいる或る具体的な任務にひたすら専念することです。」（P72）
「われわれが自分の自我に帰るのはこの方法において他にないからです。そして一つの事へ専念することで初めてわれわれは独自の人格を形づくるのです。われわれが自分の不安から自由になれるのは自己反省とかまして自己観察とかによってではなく、自己放棄によって、自己を引き渡すことによって、それだけの価値のある事へ自己をゆだねることによってです。これこそあらゆる自己形成の秘密です…。」（P73）

　ところで「HIKIKOMORI」という現象がある。衆議院議員・田中甲氏によれば、「精神的な障害がきっかけではなく、自宅や自室に6ヶ月以上の長期間引きこもって社会参加できないでいる中学卒業段階以降の青年」（厚生労働省）が全国に100万人以上もおり、年々増加傾向にあるという。そしてこのようなひきこもる青年という現象は諸外国には事例がなく、一種の「日本病」だというのである（『毎日新聞』03年3月30日の「発言席」）。このことについて確かな知識もないので軽々しいことは言えないが、自己反省と自己観察に膨大なエネルギーを使い、自分という不毛な迷路を彷徨している若者がこれほど多くいるというのは驚きである。

　最後に、本のタイトルについてである。このことばは「精神の抵抗力」という一章のなかで述べられている。時代精神だの病理などというと、何か大上段に振りかぶった物言いで、私としてはあまり嬉しくないのだが、要は、現代は「精神の倦怠」すなわち「自分の精神や自由や責任ぐらい煩わしいものはない」と感じる時代だと指摘する。しかしこれは今から半世紀も前の話。では現代は？ となると、これはもう推して知るべし。
　心身に抵抗しうる精神の存在も、任務に責任を担う喜びも、そんなものはすっかり忘れ、ただただ厚かましく生きることが強いられるような時代であるが、私はこの章にある「精神科医がしなければならないのは、人間が再び自由で─自由でしかも責任を負っていると叫ぶことなのだ。…人間は一般にあらゆる条件を、それも精神の反抗力とでもいうものの力でなんとかして超えてこそ、初めて本来の意味での人間たりうる」（P157）という言葉が好きである。

　かじかわ・てつじ
　1951年和歌山市生まれ。大阪市立大学法学部卒業。
　｢人はなぜ働くのか｣という疑問を自分の課題にしながら、公立高校の社会(地歴・公民)科
　教員を25年余。ナチス強制収容所の体験を綴った『夜と霧』の著者・フランクルに共感し、
　現在、その思想を多角的に学んでいる。
　著書：山田邦男編『フランクルを学ぶ人のために』(分担執筆、2002年5月世界思想社)

 自己を超えるということ

                梶川哲司／和歌山県立向陽高校教諭・ＯＷＬ仕事研究会世話人

　前回はフランクルのラジオ講演を集めた『時代精神の病理学』という本を読んだ。このなかで「自己超越」という言葉を紹介したが、いろいろと誤解されかねない言葉であるので、今回はこのことについて更に深く考えたい。
　フランクルのいう自己超越とは、直接的には自己が自分自身に囚われている状態から解き放たれることを意味する。例えば精神科医・神谷美恵子が次のような事例を紹介している。長島愛生園にいたハンセン氏病の青年は、長く心臓神経症を病んでいたが、ある時思い切って園内の気象観測所に勤めだした。彼は仕事に参加してから、見違えるほど元気になり神経症状も出なくなったが、その後、肢体不自由のために年金を受けることになり、規定により仕事を辞めざるを得なくなった。すると再び以前のような神経症状が現れてきたという（『生きがいについて』みすず書房。P22）。自己超越とはこの青年における観測所の仕事に従事するようなことを意味するのであろう。
　しかしここで私が関心を持つのは神経症の治療の話ではなく、むしろ人間本来の在り方として、人の生には自己以外の何か、あるいは誰かに“尽くす”という局面が不可欠だというフランクルの指摘である。

　自己以外の事あるいは他者に尽くすことは従来から、“貢献”や“献身”などと表現されてきた。ここで実業家・滝久雄が次のように指摘している。すなわち彼は、貢献しようとする心は「人間にだけ与えられた本能」であり、「学習して獲得されるような精神的な心の作用とは異なるもの」だとし、他者に尽くそうとする「貢献心」の中に、むしろ自分を満足させたいとする欲求が刻み込まれていると分析する（『貢献する気持ち−ホモ・コントリビューエンス』紀伊国屋書店、01年。P72‐74）。
　これとよく似たことは、イタリアの社会学者・F・アルベローニの『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』（草思社、99年）の最終章（献身することの意味）でも、次のように述べられている（P167−177）。
　すなわち、「私たち人間は誰もが他の人に、あるいは他のなんらかのものに自ら尽くしたいという、やみがたい欲求を抱いている」。そして「自分自身を愛や関心や配慮、留意の対象とすることはできない」が、「自分の妻や恋人に、あるいは企業に、政党に、一冊の書物に、犬や猫にさえも尽くしたいという思いをもって」おり、「とにかく、自分以外の、自分ではないなんらかのものに対する思い」である。この「単純かつ明瞭な事実は、私たち人間がどうしようもないほどに道徳的な存在だということである。このことは、私たち人間が善良であることを意味するのではなく、ひたすら自分自身のためだけにする行為は道徳的な価値をもたないし、私たちの心の奥底には満たされない思いが残るということなのである。自分のためだけにする行為は“価値”の規則にまで到達することができない」ということである。
　さらに、「もしある人が熱中、献身し、それを介して自分自身を超えて飛躍できる対象となるような人物や責務をもっていなければ、その人の生活は空虚で意味のないものになってしまう。つまり、何かの事物、対象は、私たちの外にあふれでて、私たちをとり巻いているものを成長させ、それに生命を与え開花させるときにはじめて意味をもつのである。」
　そして人間のもっともすばらしいのは、「契約や義務や快楽にもとづいてそれ（献身）をするのではなく、心の躍動、愛、献身などの情念からそれを行なう」という点にある。それはなぜか。「私が思うには、すべての人間に共通しているこのような性向、気質は、私たちの生物学的・社会的な本性に客観的な基礎をもっているからなのである。私たちは孤立した個体ではなく、終わりのない生命の鎖のなかに、歴史的進化発展のプロセスのなかに組みこまれているのである。私たちは、自分たちに先行した諸世代の労苦の所産であり、あとに来る子孫とも同じことをするようにプログラミングされているのである。つまり、私たちの存在のすべて、言語や私たちの認識、労働や食物などを前世代から受けとって、次の世代に授けるように私たちはプログラミングされているからである」という。
　また、「アダム・ファーガソンが次のように述べている。『このような深い動機づけに動かされて、人間は、幸福というものが自分たちの共同体のために企画し建設することにあることを発見する。事実、人間は、自らの共同体の不可分な一部として自分自身を考えるとき、その心は燃えあがり、熱意にあふれ、つらい苦しみや恐れ、嫉妬、ねたみなどから成り立っている個人的な情念を忘れ去るのである。そして、他人の善を望むとき、他人の幸福が自らの幸福にとってもっとも豊かな源泉であることに気がつくのである。そして、彼の生活は、エゴイズム、卑劣さ、貪欲さから解き放たれて、自らの存在が、恐れ知らずで大胆になり、いかなる偉業をも成しうるようになるのである。』
　どんな種、どんな世代でも、それ自身で尽き果てるのではなく、自己を超越するとき、自己の外にあるより良いなにかを準備したときに尽き果てるのである。生物学上のすべての種も、人間のすべての世代も、すべての個人も、創造の任務にこのように協働するのである。これが進化の“意義”であり、生命の“意義”なのである。私たちは献身的行為の産物であり、また献身の責務を負っているのである。このような理由から、もっぱら私たち自身に向けられた、まったく功利的で、まったく利己的な行為は空虚であり、空しさを生みだすのである。つまり“献身して”いない生命は意義が欠如しているのである。」

　人間の生は、もちろん献身だけに尽きるわけではない。そしてまた、このことゆえにあまりに多くの生がゆがめられてきた事実もあった。しかし人の生には不可欠な要素であり、労働のもつ重層的な意味合いのなかに、この献身という要素が含まれている。
　自分のこと以外の責務や他者に尽くす満足感は、日頃、あまり目立たないが、人間が人生の最終段階に達したときに、どんな人でも顔を美しく輝かせる一瞬があり、それは自らの人生を振り返り、自分は誰かのために役立ったと感じ、自分の人生に価値があったのだ、生きたことがよかったのだと納得した時であると聞く。そしてそのようになった時、はじめて彼は死を従容とし受け入れることができるという（黒岩徹『イギリス式生活術』岩波新書、03年。P111−127）。

　かじかわ・てつじ
　1951年和歌山市生まれ。大阪市立大学法学部卒業。
　｢人はなぜ働くのか｣という疑問を自分の課題にしながら、公立高校の社会(地歴・公民)科
　教員を25年余。ナチス強制収容所の体験を綴った『夜と霧』の著者・フランクルに共感し、
　現在、その思想を多角的に学んでいる。
　著書：山田邦男編『フランクルを学ぶ人のために』(分担執筆、2002年5月世界思想社)

 『精神医学的人間像』

   第一講：人間は“具体的意味に方向づけられる”存在である

                梶川哲司／和歌山県立向陽高校教諭・ＯＷＬ仕事研究会世話人

　前々回よりフランクルの『時代精神の病理学』（みすず書房、フランクルセレクション１）から「自己超越」ということについて考えている。
　自己超越ということは、従来、自己以外の何かに「貢献」・「献身」するという言葉で表現されてきたが、前稿では、このようなことは人間本来の在り方の欠くべからざる一面である（生物としてプログラミングされている）ということを、アルベローニの著作から学んだ。したがって自己を実現することには、直接的な自分の利益以外の何か意味あることや価値あることに自分を委ねること（貢献・献身）が不可欠である。フランクルはこのことを、「自己充足と自己実現は意味充足と価値実現の結果である」（『精神医学的人間像』P57）と端的に言っている。

　今回は『精神医学的人間像』（みすず書房、フランクルセレクション２）という書を読んでみよう。この本は、1957年にドイツ・ザルツブルグ大学における講演会で行なった３つの講演録から成っている。また最後の「訳者あとがき」には、フランクルの思想的な位置について詳細な説明がなされている。これによればフランクルの思想的位置は、哲学者のM・シェーラーやG・マルセルに近く、有神論的実存主義の側にいることが分かる。

　さて本書の内容であるが、第一講は、フロイトらの精神分析に対するフランクルの立場、すなわちロゴセラピー（実存分析）とはどのような立場なのかを明らかにした講演である。
　ここで彼は、フロイトやアドラーの考え方を「力動的心理学主義」と表現して批判する。つまり、「フロイトはすべての行動が乱された均衡を取り戻す役目をしていると説いている。けれども、生物の唯一の一次的基本傾向は緊張解消であるという、当時の物理学にささえられたフロイトの仮説は、まるであてはまらない」（P12）というのである。半世紀も前に語られたことなのでその後の心理学の発達によって、大きな知見の変化もあるであろうが、フランクルが生涯一貫して主張したのは、「メカニズムにもとづいて心の生活を説明し、技術論の助けをかりて心の病いを治療する」（P22）心理学、すなわち人間の行動を原因−結果の関係に解消してしまう還元主義への批判であった。
　これを現代にあてはめてみると、フロイト以来の力動的心理学は相変わらず健在で、幼少時に受けた心的外傷が精神的な病の大きな原因とするトラウマ説の流行にもみられる。したがって第一講は、このような考え方に対する批判とも読める。例えば神経症患者を「引き潮と暗礁」（P18）に譬える話がある。引き潮（＝感情の低下）になると暗礁（＝葛藤・外傷）が現われるからといって、暗礁そのものが引き潮の原因とはいえないという。
　ここで、引き潮になって暗礁が露出している状態を神経症状ととらえておこう。我々はよく気分的に落ち込み、不安な状態や鬱になることがあるが、得てしてそのような時には何故こうなったのかと原因探しをし、自分を見つめ直すことが多くなる。この時、よく原因とされるのが過去のトラウマや自己の成育歴である。やがてその人の完璧主義的な性格が災いしてか、原因探しとその解消に躍起となり、ついにはそのことに囚われ、日常生活に支障がでることがある。このような状態を「引き潮」というのであり、この時に原因とされるものを「暗礁」と譬えるのであろう。
　しかしフランクルはここで、トラウマを病因的なものというよりもむしろ症候的なものととらえる。そして神経症状の解決を、トラウマそのものの解決よりも「引き潮」をなくすということに求める。このようにロゴセラピーは、従来の精神分析とはその治療法において、大きな差異が表れるのである。
　ではその「引き潮」の解決はどのようにして可能なのか。文中には必ずしも明確には述べられていないが、全体からすれば、人間が心身の次元にのみ留まって自分を超えられないところから「引き潮」が起こると考え、ここに精神の作用によって人間の「現存在に対する根源的信頼を回復」（P38）し、自らの生における「意味や価値への方向づけ」を行なう「実存的態度変換」（P21）によって解決しようとする。このことは具体的には、「実存分析の過程でそのつどまず解明されるべき個人的かつ具体的課題への没頭」（P22）ということであり、「自分を忘れ」「なにか別のものを目ざして生きる」（P39）ことである。
　ここでフランクルは人間の本質を、「人間が（そのつど初めて分析的に解明されるべき）かれの個人的現存在の具体的意味に方向づけられ秩序づけられる点にこそある」（P39）と述べている。このようにロゴセラピーは「症状そのものに向けられるのではなく、一種の態度の変化、症状に対する個人的態度変換を導き出そう」としているため、「人格主義的心理療法」（P31）といえるのである。

　一方、この項ではユングについても、その功績を認めた上で批判している。すなわち、ユングを「神経症を『意味を見いだせない心の病い』とあえて定義したという点にだけでもどのような功績があるかは、いくら強調してもしすぎることはありません」（P14）と評価した上で、しかしユングは「無意識から提示された宗教的動機と内的経験の混沌のなかにも、取捨選択をとおして、秩序をうちたてることができる」（P14）という人間の能力を見落としていると指摘する。すなわちユングの人間観には、「『無意識の創造』に対して決定をくだす審級が欠けている」（P14）と批判する。つまり人間のもつ“個人的な決断”という側面をユングは見ていないと言うのである。
　フランクルのフロイトやユングに対する批判は、宗教や道徳においてはますます強烈になり、彼らによって「無意識の道徳性と無意識の信仰心は『自我』を抜きとられて『エス』化されてしまった」（P89）と言う。特に「ユング学派は宗教心を宗教的衝動に還元し、その起源を集団的無意識に求める」と批判し、「真の宗教心はけっして集団的なものではなく、反対に、もっとも個人的なもの」であり、「なんらかの古代類型に還元される」ものでないと言うのである（P89）。

　かじかわ・てつじ
　1951年和歌山市生まれ。大阪市立大学法学部卒業。
　｢人はなぜ働くのか｣という疑問を自分の課題にしながら、公立高校の社会(地歴・公民)科
　教員を25年余。ナチス強制収容所の体験を綴った『夜と霧』の著者・フランクルに共感し、
　現在、その思想を多角的に学んでいる。
　著書：山田邦男編『フランクルを学ぶ人のために』(分担執筆、2002年5月世界思想社)